地元中学校へストーリーテリングの出前
18年間の経験を振り返って思うこと
2010年02月
山本 宣親

はじめに

 昨年(平成21)暮れ、富士市立吉原第3中学校(以下3中という)へ出前ストーリーテリングに出かけました。中学校へ出向いて語っているのは珍しいためか、県内外の知人から詳しい話を聞きたいと求められているので当日の様子を報告しながら、これまでの私の体験を通して思うことを述べます。

当日の様子

 3中は、源頼朝が「富士の巻き狩」に往来した鎌倉時代の街道沿い上段、眼下に駿河湾、左に伊豆半島を望み富士山へと続く丘陵に位置しています。市道を隔てた東隣には「かぐや姫」誕生の竹林があり、歴史と自然環境に恵まれた地域にあります。

 平成4年(1992)同校からの求めに応え毎年2回、授業の一環として1時限を受け持ち、今年で出前ストーリーテリング満18年を経過しています。

 当初はむくつけき男子中学生が静かに聞いてくれるだろうか? と内心不安に感じましたが、実際に語ったところその心配は無用でした。以降、生徒の聞き方は年を経る毎に良くなっています。それに学校側の受入れ対応も適切だと感じています。

 私は都合で時折参加出来なかった時もありますが、初年度から参加してきたひとりとして、ストーリーテリングの活動記録を兼ねて主観を記述しておくことが必要だと考えました。

 この日、参加した語り手は8名。男性は私だけ、全員が富士市民です。校内に入る際は氏名票を着用し、私語を控えます。玄関で挨拶すると事務職員と担当教員が出迎え、スリッパを用意してくれました。案内者に従って今回は図書室に入りましたが、校長室のこともあります。語り手全員が揃うと世話人のSさんがクラス担当を割り当てます。私は3年2組と3組をひとりで受け持つことになりました。1年から3年までそれぞれ3クラスあり最低9人の語り手が必要。でも、この日集まったのは8人だったからです。

 これまでの参加者は毎回10人余。何クラスか複数で担当していました。それは1時限50分間をひとりで担当できる語り手はそれほど育っていなかったのです。しかし、今回は違いました。全員がひとりでひとクラスを担当する結果となりました。この事実に私は感慨を覚えました。職員が出してくれたお茶を飲みながら、そのことを参加者に伝えました。しかし、その意義を理解する古い語り手はそれほど多くないように見受けられました。

 やがて開始の4時間目が近づくと、各クラスから男女ふたりの生徒が1組ずつ礼儀正しく迎えに来ます。1年1組の順からです。語り手は「行って来ます」と言いながら生徒の後に従います、残った人たちは「言ってらっしゃい」と言葉を送ります。私はしんがりとなりました。通常、会場は教室です。語り手が入室すると生徒たちが既に待っています。机は教室の後ろに片付け、その前に椅子を扇型に並べ30数人が座っているのです。

 しかし、この日私が担当するのは2クラス合同だったので、多目的フロアが会場でした。ここは2教室ほどのスペースで仕切りはなく、廊下とつながったフロア。各階東西2箇所に設置されています。フロアマットに生徒たちが体操座りで待っていました。椅子は用いていません。

 「起立、気をつけ、礼」当番の号令の後、生徒たちから「おねがいします」と声をそろえた挨拶がありました。私は生徒たちに座ってもらい、一渡り見回しました。人数は60数名。中学3年生をこれだけ前にすると圧倒される気がします。これだけの人数に1時限を語るのかと思うと、一瞬たじろぎます。教室とは違うこの広いオープンスペースで、全員に声が十分に届くだろうかと思ったからです。でも以前、小学校の体育館でこの何倍もの児童を前に肉声で語ったことを思い起こし、よし!と腹を据え、窓を背にした壇に立ちました。

 語りに入る前に持参した水筒の水をひとくち飲み、喉を潤し気持ちを落ち着かせます。そして聞き手を観察しながら何を語るか「はなし」を決める「間」などに使います。でも、この日はメーンとする「はなし」を予め決めていました。ただ、その順序をどうするかはその場の雰囲気や私の気分で決めようと考えていたのです。予め考えていたのは「寒い母」(斉藤隆介全集12・岩崎書店)。よし、これを最初に語ろうと決めました。

 これは朝鮮の昔話で、若くして夫に死別した母が女手ひとつで7人の息子を育て上げ、高齢を迎えて隣村の老人と知り合います。厳寒の真夜中、母は息子たちが眠っている間に村境の川を渡り毎夜老人を訪ね、互いに背中をかきあって高齢者としての愛情を交わしあうのです。その場面を長男がひそかに見てしまいます。長男からそのことを聞いた弟たちは相談して母が帰宅する前に大急ぎで川に駆けつけ、飛び石を川の中に置き母が凍えないようにしてやるのです。親子の愛情と高齢男女の愛をテーマにした物語。やがて老人や母が死に息子7人がすべて亡くなったその晩から、ひしゃくの形をした7つの星座が北の空に輝き人々を驚かせたという物語。

 これは語りに20分を要する長編で高齢者を対象に語っているのですが、中学3年生ならばこのテーマを理解してもらえるだろうと考えました。

 私は聞き手の反応を見ながら語ります。それによってスピードや声の調子、声量を加減します。特に真ん中と左右で聞き方の上手い生徒を見つけ、その子の顔を見て話すように心がけています。聞き手全体から見ると、私のこの目線が自分を見ているように映るようで、全体の雰囲気づくりにも良い影響を及ぼしていると感じています。何よりも語り手と聞き手の基本は、互いに顔を見ることだと思っていますので、つとめて意識し実行しています。

 この目が合ったちょっとの間、互いに通じ合ったと思うことがあります。ストーリーテリングをこれまで語っていて良かった! と感じる至福の瞬間です。

 続いてトルコの昔話「三つの金曜日(約10分)」(天から降ってきたお金・岩波書店)と、日本の昔話「つるのあねさ(約13分)」(大川悦生著・ポプラ社)を語りました。その合い間、聞き手の反応を見つつ「私はどうして覚えるのか」「覚えるコツは何か」の要点を簡単に話し、授業を聞くコツと連動して言及します。テストのために仕方なく暗記するような態度を改め、自分を成長させ社会に役立つための学習をしてほしいと思いを込めて伝えました。

 最後に「きつねのおくさま(1分)」(広瀬弥寿子さんからの口伝)「…おいちまい、おにまい、おさんまい、おしまい」「さて、今日のおはなしもこれでお・し・ま・い。」で締めると、聞き手の笑いと安堵感で終わることが出来るのです。この日もそのように終わることが出来、その上タイミング良く終礼のチャイムが鳴りました。

 終わりに「起立、気をつけ、礼」の号令が当番から発せられ、全員がそれに従い大きな声で「ありがとうございました」と揃って頭を下げました。私は「こちらこそありがとう! とても聞き方が良かったので、気持ちよく語ることが出来ました」と生徒たちに礼を返しました。

 帰り際、特に聞き方の良かったひとりの女子生徒に近寄って「聞き方が良くて感心したよ」と告げました。その子は恥ずかしそうに笑顔を返しながら、私に目礼をしてくれました。

 迎えに来てくれた生徒ふたりが、図書室まで送ってくれました。どこの教室もストーリーテリングは終了し、次の給食の準備に取り掛かっていました。

 図書室に戻ってきた語り手メンバーは、「はなし」「出典」を一覧表に記入します。全員が書き終わると学校に提出し、人数分をコピーして各人に配ります。こうした作業中に校長が担当教員と共に見え、丁重にお礼の挨拶をしてくれました。その中で、この取り組みを続けてから、生徒たちが落ち着いたと述べたことが印象に残りました。校長は数年毎に代わっても、長年継続している根拠かと得心しました。3中ではストーリーテリングを単に学校行事のひとつとして実施するのではなく、その目的が職員集団全体に理解されていることを感じます。学校の受入れ対応にいつも感心するのは、そうした背景があってのことであろうと推察しています。

 例えば、校内で出会った教職員の誰もが先に挨拶をしてくれますが、その態度物腰から、私たちの来校目的を知っており、感謝を込めた挨拶であることが感じられるのです。廊下ですれ違う生徒の中にも「こんにちは」と声を掛ける子もいます。全校がストーリーテリングの受入れに対応していることを肌で感じ、それに応え気を入れて語らなくては! と、思いを新たにします。多分、その気持ちは他の語り手も同様であろうと思います。市内中学校へはこれまでに何校か出向きましたが、この3中がどこよりも適切な受入れがされていると感じています。

 そんなわけで、今回も気持ちよく学校を後にしました。数年前はこの後、近くのレストランや喫茶店で「反省会」と称し食事やお茶をしながら、談笑し感想を出し合い今後の予定などを語り合ったものです。でも近年仕事に就く人が増え、何かと多用でゆとりは少なくなりました。

 終わるとそれぞれ早々に帰り支度をします。私は世話役のSさんに礼を述べてから、午後から勤務という図書館臨時職員の車に相乗りさせてもらい帰宅しました。

 3中での活動が長年続いているのは、このSさんが大きな役割を果たしているからです。この校区に住む語り手であり、学校との連絡役を最初から引き受けてくれている人です。

これまでの経過

 昭和62年(1987)私は45歳の春、人事異動で中央図書館勤務となりました。市街地から離れた場所に位置する古くて狭い施設でした。

 ストーリーテリングを知ったのはこの年です。市民のMさんがボランティアとして図書館で子供たちに語っていました。彼女は東京子ども図書館に通い、そこで学んだということでした。

 私はこれを聞いた時「図書館職員が語らなくては!」と、思いました。そして「私もやるからみんなもやろう!」と、職員に呼びかけました。以後、焼津市で活動している広瀬弥寿子さんをお招きしておとなを対象とした「ストーリーテリングいっぱいの会」を行い、この活動を市民に知らせるほか、講習会なども行い語り手を増やす取り組みを開始しました。

 広瀬さんを迎えた会は新聞社や県内テレビ局が取材し報道しました。反響は大く、それからは図書館の「おはなし会」や「ストーリーテリング研究会」への参加者が増えると共に、語り手希望者も現れました。また、学校から「出前ストーリーテリング」の依頼が急増しました。

 市内のいくつかの地域には読み聞かせなどの活動をしているグループがありました。それらのグループは、主として地域の公民館で子供たちを対象に活動し、図書館と共同して毎年1回、地域の公民館を会場に持ち回りで「本はともだち・子どもまつり」を行っていました。

 グループの活動はそれぞれ特徴があり、絵本の読み聞かせや人形劇、大型紙芝居、ペープサート、影絵など形態は様々でしたが、本好きな子に育ってほしいという目的は共通でした。

 そうした活動に新しくストーリーテリングが加わり、語り手が育ってきました。そのメンバーの中には学校に出向いて語りたいという望みがありました。しかし、当時の学校は市民の活動を受け入れる状況にはなっていませんでした。何とか理解してもらい実現したい、と校長に面会を申し込むのですが、会うことも困難だったそうです。

 そのことを聞いた私は、館長の了解を得て学校長に面会を申し込み、会のメンバーと共に訪れ「出前ストーリーテリング」の受入れを依頼しました。いろいろ話し合った後、最終的に校長は「では、先ず一度試みにやってみましょう」と了承してくれました。その話し合いの中で校長から尋ねられたことは「ストーリーテリングとは何ですか?」「宗教と関係がありますか?」「思想的なものと違いますか?」など、今では考えられないような質問でした。でも、当時の状況下としては無理の無いことで、本音の気持ちを聞くことが出来てよかったと思っています。初歩的な質問に誠実に応え、ようやく学校での「出前ストーリーテリング」が実現したのです。

 テレビ局に取材に来てもらい「ストーリーテリングいっぱいの会」を催したのは、このような背景があったからです。県内のテレビ局であっても、図書館のことが放映されることは当時としては珍しく、それだけに反響は大きなものがあったのです。

 私は図書館に異動する前、広報広聴を担当したので、報道機関の事情を多少知っていました。新聞やテレビ記者は時の話題や事件性のあるニュースを追っていますが、それ以外にも珍しいこと、気持ちがホッと安らぐことなどを求めています。特に「初めてのこと」は関心が高く、取材に来るものです。したがって、資料を添えて報道提供すると効果があります。どこの行政機関もこうしたお知らせは、広報課を通して報道提供しています。各担当課から提出されたこうしたお知らせは、広報担当者が庁舎内にある記者室で各社毎に配っています。

 報道記者はそうした中から記事にし、取材対象を選び現場に出向いています。したがって、単にチラシだけを提供するのでなく、要点をコメントすることが大切です。この報道提供への取り組みは、課や担当者によって濃淡があります。行政に関する情報は「広報紙」などで知らせるだけでは不十分です。新聞やテレビなど報道機関を通して広く知ってもらうことは「まちづくり」を市民と共働するためにも重要。職員は報道機関に意識的に対処することが必要です。

 しかし、図書館として発信の取り組みは全国的に不得手のように見受けられます。

 平成元年(1989)、毎月定例で行っていた「おはなし勉強会」を発展させて「ストーリーテリング自主研究会」を立ち上げました。初代会長は語り手の市民Aさん。市外からストーリーテラーを招いて実践的な講習が時折行われました。参加は市民の会員20人前後と、図書館職員数人でした。語り手が育ってきました。並行して図書館での「おはなし会」に取り入れ、中央図書館と西図書館を会場に「ストーリーテリングいっぱいの会」が催され、会員の発表の場ともなりました。学校や幼稚園、保育園から依頼が多くなりました。これらに応えるようにしましたが、需要と供給のアンバランスが生じ、また経験不足から適切さを欠くケースなどが見られました。

 その要旨を箇条書きします。

 1. 当初体育館などに全校、あるいは学年が集まって大勢の子どもを前に語った。そうした経験からクラス毎に語る方がよいということになった。

 2. しかし、ひとりで1時限を担当する語り手は限られており、語り手が不足するため複数で担当することにした。それでも足りず、ひとりが語り終わると次の教室に移動して語るというせわしない掛け持ちがしばしば見られた。しかし、その度に子供たちの注意力が出入り口に注がれ、落ち着きを欠く会となってしまった。

 3. 同じ日に複数校が重なり、何校も掛け持ちをするなど負担が大きくなる人もいた。

 4. 人数を揃えることが主となり、ストーリーテリング以外のグループや知人にも支援を求めた。このためバラエティーを広げたプログラム編成となり、人形やペープサートなど媒体を用いたビジュアルな出し物に子供たちが過剰に反応し、騒然とした騒ぎとなって両隣のクラスの語りが妨げられることもあった。

 5.「学校デビュー」が出来たことで気分が高揚してか、出演者の一部に過ぎたおしゃべりなどマナーに問題が見られるような状況が散見された。こうしたことから、当初の基本に立ち戻り、ストーリーテリングの原点を何度も話し合い次のことを確認した。

申し合わせ事項

 その1. 本への導入を目的とし子供たちの想像力へ働きかけるため、ストーリーテリングを出前するのである。この基本を再確認し、ストーリーテリングを中心とし、絵本の読み聞かせ、ブックトークを補助的に用いることはあってもビジュアルな媒体は持ち込まない。
 その2. 校内でのマナーとして次のことを厳守する。→おしゃべりをしない。会話の声量は控え目とする。校内で知り得た情報は外部に話さない。決められた場所以外には出歩かない。氏名票を着用する。挨拶をする。語った内容はその出典も共に記録し、学校に提出する。

 こうした試行錯誤を重ね、以後は適切な対応が確立されていきました。引き続き定例の研究会やストーリーテリングいっぱいの会などが重ねられ、語り手が育っていきました。

 また学校や幼稚園、保育園などからの求めも定着し、その担当は地元の語り手を主力にそれぞれ分担が定まってきました。語り手の中には市内はもとより、市外からも声がかかる人も現れ、ストーリーテリングの種が広範囲に蒔かれるようになっています。

私はどうして語り手となったか

 「私もやるからみんなもやろう」と職員に呼びかけたのは、Mさんの語りを聞いて瞬間的に「これは図書館職員がやらなくては!」と感じたからです。その気持ちを整理すると、図書館に異動した直後「図書館とは何か」「図書館職員の役割は何か」を知ろうとしていたからです。

 その命題を私なりにとらえ、整理すると次のようになります。(この時期の取り組みの詳細は拙著「図書館づくり奮戦記」日外アソシエーツ・1996年)

 1. 市民の多くは図書館を「無料貸し本屋」のレベルで見ており、この意識を改める必要がある。

 2. その役割は図書館職員であり、そのために職員は自らの役割を自覚し図書館サービスの質を高めていくことが重要である。

 3. 図書館は市民の学ぶ権利、知る権利に向き合い、図書館職員が資料と情報を提供し、適切なコミュニケーションを用いて求めに応えることを目的とした社会教育施設である。この目的こそ市民の基本的人権を保障する公の機関であると理解すべきである。

 4. この概念は目に見えないもので、市民が理解することは難しい。それ故、来館者や市民にわかるように挨拶や態度物腰を含めたコミュニケーション能力を用い、図書館サービスの質をより高め、市民の意識に働きかけることが必要である。

 5. また、図書館職員が行うサービスは館内だけでなく館外へも出向いて行い、広く市民の目に見えるように工夫して行う取り組みも重要である。

 6. こうした取り組みのひとつとしてストーリーテリングは有効な手段であり、図書館職員が語るにふさわしいもの。そして、この取り組みは市民と共同することが大切である。

 子どもたちを前に私が初めてストーリーテリングを語ったのは、図書館に異動したその年でした。職員に呼びかけてから2ヵ月ほど後のことです。語った「おはなし」は「までまでふんどししめて」(むかしむかし・童心社)13分ほどの長編。数ヶ月後、同様の時間を要する「くぎスープ」(世界のむかし話・ノラ書房)も語りました。市役所の事務職員だった私が、図書館に異動した年にこれらを語ったことは、図書館職員や関係する人たちが驚いたようでした。しかし、そのわけを明かせば、息子が子どもの頃、何度も読んでやった本だったのです。とりわけ、このふたつの物語を息子は気に入り、何度も求めました。何十回もうんざりするほど読みました。10数年が経過していましたが(あの話ならすぐに出来そうだ)と思ったのです。やってみたら少しの練習で語ることが出来たというわけです。

 このことが切っ掛けとなって、職員の中にも語り手が増えてきました。その前から黙々と語っている職員もいましたが、ようやく芽が出てきたという印象でした。

 ストーリーテリングは「素話」とも言われ、語り手と聞き手が「おはなし」を楽しみます。双方の間には妨げるものが何も無く、互いに顔を見合うライブです。反応を即確かめることが出来ます。同じ「おはなし」を語ってもその都度違います。聞き手の反応で、語り終わった時の満足度のメーターが上がります。子供たちの顔つきがレパートリーを増やそうという気持ちを強くします。

 ストーリーテリングの輪の広がりと共に、図書館の利用や来館者が目に見えて増加してきました。例えば、市民ひとり当りの貸出し数は県内の市立図書館で21番と最低の数値でしたが、それから10年も経ずに1番となりました。図書館サービスの質も向上しました。職員と来館者とのコミュニケーションが活発となり、館内の雰囲気も明るくなりました。

 新中央図書館の移転新築を求める市民の要求が運動となって、「みんなの図書館のぞむ会」が発足し活動の推進力となりました。その会長はあのMさん。ストーリーテリングや各地域で読み聞かせに取り組んでいる人たちはMさんと共に、運動の中心となって活動しました。

 平成7年(1995)10月、市の中心市街地に新中央図書館が新築されました。建設費は36億3千万円。大きさは旧中央図書館の5倍、職員数は3倍となりました。これでようやく館内でストーリーテリングや講演会をはじめ、レクチャーコンサートなどいろいろな催し物が出来るようになり、市民の自主活動のセンターとなりました。

 館内で定例化した「ストーリーテリング研究会」へは児童担当の職員を中心に参加するようになりました。さらに「おはなし会」へは、意欲のある職員にも出来るだけ参加の機会が得られるように配慮し、私は「こどもまつり」や学校への「出前ストーリーテリング」の際、求めがあれば参加し、それ以外子どもたちに語る機会は控えました。それに私は中央図書館の移転新築に伴いその準備担当となったので、その間ストーリーテリングから離れました。しかし、当時私は職場研修委員をしていたので、市内4館の職員が集合して行う「職場研修」の冒頭に、持ち回りで職員に語ってもらうなどして職場の雰囲気づくりに努めました。

 西図書館に館長として異動してからは、館の運営にストーリーテリングを位置づけました。職員数は少なかったので、毎週土曜日の「おはなし会」は全員で取り組むようにしました。「楽しいことはみんなでやろう」と呼びかけました。それまでは児童担当の職員がひとりで担当し、負担が大きかったようです。子どもたちに直接語りが出来るこの日は待ち遠しく、「おはなし会」のある土曜日、私はなるべく休まないようにしました。

 館外へも活動を展開しました。地域内の保育園へは司書と共に「出前ストーリーテリング」に出かけました。こうした経験を重ねた司書は、小学校からの依頼に応え、保護者を対象とした研修会などで絵本に関する講演に講師として出向くまでになりました。また他の臨時職員も小学校図書委員を対象に、本の修理やフィルムコーティングの指導に出向きました。

 これらの趣旨を職員は理解し、能力を生かして積極的に取り組みました。館外へ職員が出向く日は手薄になってしまう職場体制を全員の協力で切り抜けました。私も昼休み時間を短縮し、昼食時間を変更するなどして、カウンター業務をカバーしました。

 市民を対象に「ストーリーテリング講習会」を行いました。講師は上達著しい地域の語り手3人。数ヶ月の訓練で10数人の新しい語り手が誕生し、講師も貴重な体験をしました。

 終了後、おとな対象の「ストーリーテリングいっぱいの会」を開き、語り手のデビューの場をつくりました。市外からも多くの聞き手が集まりました。私も語り手に加わりました。

 こうした取り組みによって「おはなし会」の参加者が増え、おとなも参加するようになりました。市外へ引越しをした子どもの中にどうしても聞きたい、と両親と一緒に来館してくれたこともあり、また、小学生だった子どもが中学や高校に進学しても聞きに来てくれるなど、感動する嬉しいことがいくつもあって、私だけでなく職員のやる気が増進されました。

 当時、道路を挟んで向かい側にある小学校は、下校時に一旦帰宅してから外出するように指導していました。それを破ってランドセルを背負ったまま来館した子どもは翌日注意されるということがありました。私は校長と話し合って図書館に立ち寄ることを例外的に認めてもらうよう依頼しました。以降、放課後は子どもたちが大勢来館するようになりました。その際、子どもたちと職員の挨拶は「ただいま」「おかえり」というものでした。一般の来館者の中にはそんな状況を微笑んで眺めていました。しかし、玄関ホールに用意したランドセル置き場は溢れ、足の踏み場もない日々が続きました。この現場は見る人たちの中に、広くて新しい図書館が必要という意識を強め、その声が次第に広がっていることを感じました。

 私たちが取り組んだ詳細はこれまでとします。西図書館もまた古くて狭い施設でしたが、職員の取り組みで来館者と利用は急増しました。その中でも特に予約件数が目立ち、貸出しに占める割合は市内4館の中でトップ、県内の平均を上回りました。不便な施設で、しかも少数の職員であっても、意識的な取り組みと工夫で困難な状況を転換することが出来ました。こうした実情やその秘訣を探ろうと遠く北海道から九州まで、全国から視察者が来館しました。また、県立図書館職員や学生などが体験研修として来館することもありました。

 ストーリーテリングはそうした取り組みの中で効果的な手段だったと思います。来館者にこれまでとは違った図書館のイメージや職員の熱意を伝えることに役立ち、転換の切っ掛けになりました。(参照 拙編著「図書館森時代」日本地域社会研究所・2005年)

 私は退職を前に、地域の人たちへの感謝を込めて「図書館を楽しむためのおはなしとストーリーテリングの会」を2回行いました。市民をはじめ、市外からも多くの参加があり、その中に私の小学校の恩師もお見えになり感動しました。今も忘れられない思い出です。

 その後西図書館は、地域の利用者をはじめ多くの市民の取り組みによって、市や議会を動かし、別の場所に新築開館し広く使いやすい施設となりました。

おわりに

 退職した私は図書館から離れましたが、ストーリーテリングから離れないようにしました。

 求めに応えて引き続き3中に出かけています。これまでの市立保育園2園に加え、新たに私立幼稚園からも求められ「おはなしじーじ・やまもと」の名札を胸に語っています。

 さらに、非常勤講師として県内のふたつの大学で授業を担当した際、ストーリーテリングを聞いた有無を調べたところ、ほとんどいないことに驚き授業として取り組みました。

 通常の講義形式から離れ、聞く楽しみを体験してもらうことを目的としました。この授業は他のクラスや教職員が聴講に訪れました。年度によっては学生の求めが多く、「補講」という名目で再講座を行ったこともありました。また聞き逃した学生、もう一度聞きたいという学生、卒業した学生などが数人で富士市を訪れました。私はそうした彼らを前に語りました。

 東京在住の息子ファミリーがわが家に帰郷した際、私は孫にも語っています。ふたりの男児がようやく語りを求める年齢になりました。昔、息子に読んでやったあれこれの昔話を、今はストーリーテリングとして孫に語ることは何よりも大きな喜びの時間です。

「どうして覚えるのか」「覚える秘訣は」という質問を度々受けます。私は記憶力が悪く、例えば初対面で聞いた直後に相手の名前を忘れてしまうとか、昨夜食べたおかずは何だったか忘れてしまうことが度々あります。それらを考えると自分でも不思議だと思っています。

 でも、経験上から言えば、楽しんで覚えようとしているからだと思います。語り手はそれぞれ自分に合った方法でレパートリーを増やしているはずです。でも、「楽しんで…」ということに関しては共通だと思います。試験前のいやいやながら丸暗記する方法とは違います。

 そのやる気を引き出してくれるのは聞き手の反応です。聞いている子どもたちの顔つきから覚えようという気力を貰っています。さらに仲間の語り手の影響もあります。レパートリーを増やしている人、語りが上達している人から大いに刺激を受けているのです。

 最も大切だと思うこと。それは「あ、これ覚えたい」と感じる「おはなし」に出会うことです。「図書館は本と人、人と人が出会う場所」と、私は発信してきましたが、ストーリーテリングも同様です。多くの「おはなし」があることを知りましたが、その中でも私は日本の昔話を重視してレパートリーに加えています。実態を見るに外国の「おはなし」の比重が多いからです。男性の語り手が少ないことも残念に思っています。

 そんなわけで、県内外の知人にストーリーテリングをすすめています。特に正規職員の司書には挑戦してほしいと願っています。専門職としての具体的な技能を世間に知ってもらう手段のひとつでもあるからです。さらに図書館の方針でストーリーテリングが位置づけられ、館内はもちろん館外へも出向いて語ることが出来るよう取り組んでほしいと願います。

 ひとりでも多くの語り手が生まれ、その裾野が広がっていくことがストーリーテリングを楽しむ風潮を生むだけでなく、司書課程の授業としてカリキュラムに採用され、また図書館が責任を負うことが当然。という世論をつくり出すに違いありません。

 しかし、図書館発展の手段はストーリーテリングでなくてもよいと思います。誰にでも得手不得手があります。それぞれが得意とする分野で、図書館の発展に具体的に貢献していくことが重要です。例えば、手話や点字を用いた障害者サービスの充実、外国人への識字に向けた新たな取り組み、古文書解読の範囲を拡大適用したサービス、パソコン操作の初心者への手ほどきなど、時代の変化に対応した図書館活動はどのようにも展開可能です。それには内在する市民の求めをキャッチするアンテナを磨くことが大切です。

 情勢は厳しいことは確かですが、発展へのチャンス。これまでの固定観念にとらわれず、図書館職員が足を一歩踏み出し、市民と共同することによって展望が開けることは間違いありません。それこそが図書館を発展させるポイントでもあると、私は確信しています。(了)


(c) 2010 by Nobuchika Yamamoto