テレビに子守をさせない

【目 次】

1 機械は子どもを育てない
2 テレビは乳幼児の成長をゆがめる
3 テレビは家族の会話も妨げる
4 テレビは観る人を支配する



1 機械は子どもを育てない

○ヒトと機械

 五、六百万年前、ヒトは家族という全く新しい仕組みを考案することでサルからの進化を遂げました。しかし暮らし方までがすぐに変わったわけではありません。食糧の確保についてはサルの時代と大差なく、相変わらず自然の恵みだけに頼る生活を続けていました。ヒトのこうした社会に画期的な変化が訪れたのは今から一万二千年ほど前のことです。人類の歴史という長い物差しで見れば、それはつい最近の出来事となります。変化のきっかけになったのは農耕や牧畜による自然征服の技術です。これらの技術を獲得したことによって、ようやくサル社会同然の暮らしから抜け出すことになったのです。

 しかし、この出来事は同時に人々の心にも大きな変化をもたらしました。知恵と工夫がもたらす技術の力によって次々と物質的な豊かさを追求するようになったのです。そして、ついには技術の力さえ借りれば何でも可能になる、技術は人々をさらに幸せへと導いてくれる、と固く信じるようになったのです。自動車もテレビもその他の機械もみな、こうして生み出されました。私たちは今、こうした信念に基づく新商品の激しい開発競争にさらされながら生きているのです。

 例えば英語のautomobileやmotorcarという表現からも分かるように、自動車は人力でも家畜の力でもない機械の力によって移動を可能にする道具です。人や荷物を、荷車や馬車に代わって運ぶという夢のために開発されました。夢が実現すると、今度は一刻も早く目的地に着けるよう速度を上げる工夫が施され、多くの荷物を運べるようにするための改良などを加えてきました。

 ところが自動車の発明は、こうした夢や便利さの実現とは裏腹に、やがて無数の交通事故をもたらし、多数の人々を死傷させる原因となりました。それは開発者の本意とは全く異なるものでした。しかも究極の交通事故防止策が自動車の全廃にあると分かっていても、実際には誰も自動車を無くすことができません。運転を免許制にしたり、交通規則を設けたり厳しくして予防に努めるのみです。技術が決して万能ではないことを知る必要があります。

 この点は、本稿がテーマとするテレビについても同様です。初めテレビは画像を遠隔地に送るための単なる装置に過ぎませんでした。遠く離れた場所にいても現場の様子を見ることができるようにと開発されました。英語のtelevisionという呼称が開発に携わった人々の夢を表しています。ところが開発が進み、鮮明な画像の送信が可能になると、これを利用して架空の現場をつくろうとする人々が現れました。そのときからテレビは、人間の感情をも麻痺させる恐ろしい可能性を秘めた機械へと変貌していったのです。

 テレビは今、各家庭に広く普及しています。リモコンのボタン一つで、誰でも手軽に様々な番組を楽しむことができます。しかしテレビはそうした普及や利用の手軽さとは裏腹に、その使い方が厳しく問われる機械の一つでもあります。特に幼い子どものいる家庭にあっては、これがスティーブンソンの小説「ジキル博士とハイド氏」のような二つの顔を併せもった大変危うい装置であることを知る必要があります。テレビの何がジキル博士で、それがいつハイド氏に変身するのか、きちんと理解しなければなりません。そうでないと一生、テレビのハイド氏に振り回されてしまいます。

○育児は手間か

 人間にとっての便利さとは手間を省いてくれることであり、手間のために費やさなければならない労力を減らす働きが便利さです。そこには、なるべく手間をかけたくない、そんな労力は減らしたい・省きたいという無意識の願望が強く作用しています。確かに何十キロ、何百キロも先まで自分の脚で歩いてゆくのは大変な苦労です。荷物を運ぶとなれば、その苦労は何倍にもなります。だから短時間で往復できる方法があれば身体は助かるし、場合によっては老人や子どもに頼むこともできます。余った時間を他の活動に振り向けることも可能です。発明による省力化はよいことずくめのように見えます。

 驚くのは、こうした発想や願望が子育てについても行なわれていることです。その最たるものが新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の次世代ロボットプロジェクトに採択された子守りロボット(チャイルドケアロボット)の開発でしょう。愛・地球博(愛知万博)の会場で行なわれた技術実証運用によれば三〜十二歳の子どもが開発の対象とされ、子どもとのコミュニケーションを可能にするため騒がしい環境の中でも普通に対話ができる機能、目(カメラ)を使ってより親密なコミュニケーションを交わせる機能のほか、タッチセンサーを利用した触れることによるコミュニケーションの機能も備えると説明されています。さすがに国費を投じて開発されたロボットだけあって、電動式のスウィングラックに見られるような単純な機械ではありません。

 しかしどんなに機能が充実しても、その本質は子どもの世話を人間以外のものにさせようとする省力化にあります。子どもにワイヤレスマイクなどを装着させたり、携帯電話を利用した遠隔地からの連携を可能にして、機械による監視機能の強化という「チャイルドケア」の目的を達成しようとしています。これは子育てを手間と見なす視点がなければ生まれない発想です。こうした手間を省力化することが人類福祉の向上につながるのだと考える人々でなければ到底なしえない発想です。手が込んでいる分、技術に対する信仰心には根深いものがあると言えるでしょう。

 いま私たちの周りには、育児に関するものだけを見ても同様の発想や願望が渦巻いています。子どもにお話をしてあげたり絵本を読んであげることを、手間と考える人々が増えています。商品化してビジネスや飯の種にする人々だけでなく、それを我が子のために買い与えることが親の責務であり、それが家族の幸せだと信じる人々が増えています。子どもとスキンシップをしたり、子どものためにお話をしてあげたり、絵本を読んであげたりすることを手間と考えて、その代替を声優や著名タレントが吹き込んだ朗読CDなどに求める発想が拡がっています。中でも懸念されるのがテレビに子守りをさせることです。

 

2 テレビは乳幼児の成長をゆがめる  ⇒目 次

○テレビと親の背中

 テレビがする子守りにもいろいろな種類があります。「ママはいま忙しいから一緒には遊べないの。ほら、これでも観ていなさい」とビデオテープをセットしたり、子ども番組と称するものを選んで積極的に見せる確信犯的な行為から、たまたま親のそばにいて結果として視聴することになったものまで、きっかけも目にする番組も様々です。親の側に育児の手間を省こうとする明確な意図がなくても、テレビと幼い子どもとの関係を考えることなく不用意にテレビを観せている家庭は少なくありません。それだけ多くの大人がテレビの影響力に鈍感になっているのです。

 現代の父親はたいてい仕事が忙しく、休日以外に子どもと向き合う時間がありません。母親も仕事や趣味やつきあいが忙しく、余裕を持って子どもに接することができないと悩む人が増えています。時間だけでなく気持のゆとりまでなくした親が家庭でくつろぐとき、つい手を伸ばすのがテレビのリモコンです。活字で埋まった紙製の書物ではありません。テレビなら文字を読んだり、ページをめくったりする必要がないからです。ただその前に座っているだけで楽しむことができます。何も考えなくても画面が動き、音楽が流れ、音声による解説が付きます。忙しい現代人にはまさにうってつけのメディアです。実に都合のよい機械と言えるでしょう。

 子どもは親の背中を見て育つと言われます。それは家族の成立と同時に生まれた不変の真理です。否定も排除もできません。父や母になることを諦めない限り逃れることはできません。家庭における親の姿を常にテレビと不可分なものとして、物心つく前から子どもに見せていないでしょうか。現代のように子どもに接する時間が短くなればなるほど、子どもの前で親が何をするか・何を語るかは大変重要な意味を持ちます。子どもの心は、目の前の存在の仕草を真似しながら発達してゆきます。幼い子どもには批判能力も批判精神もありません。あるのは旺盛な好奇心と、その好奇心に基づいてもっぱら親の真似をすることです。

○テレビの真似が上手になる

 好奇心の対象は親の仕草や行儀作法だけではありません。テレビを観るという行動も含まれています。まだ幼いと思っていても、リモコン操作は難なく覚えてしまいます。そして、ついにテレビの画面に次々と現れる色付きの動画像や不思議な音声の存在を知ってしまいます。募るばかりの好奇心は子どもをテレビにかじりつかせ、画面で繰り返される派手な行動をそっくり真似させます。奇抜であればあるほど興味を示し、覚え、真似をします。台詞や歌詞やメロディーもみな覚えてしまいます。それらの意味も意図も何も知りません。判らなくても覚えることはできます。まさに猿真似です。

 幼い子どもには親が観ていた番組との区別も、画面の識別も、事の善悪や理非曲直の判断もありません。全てを等価なものとして、親が観ていたように視聴を続けます。そして受け止めます。テレビが流す色付きの動画像にはリズミカルな音楽や洒落た台詞の混じるナレーションが添えられています。しかも日本では、子どもがすぐに真似をしたくなるような魅力いっぱいの放送が間断なく一日中続けられているのです。

 子どもがこうした今風のリズムや台詞を覚えるとき、大脳には目から入った色つきの動画像も一緒に記憶されます。テレビには思考の画一化を促す力はあっても、子どもの想像力を掻き立てたり、その心を豊かにしたり、表現力を高めたりする力はありません。ひたすら真似をさせるのがテレビです。幼い子どもの頭脳を画一化した情報で充たすことはできても、発展的に何かを考えさせる働きはありません。それまでの親の仕草に代わって、今度はテレビ画面の仕草や音声の真似をさせるだけです。にもかかわらず親の中には、これを喜んだり得意がったりする人が少なくありません。朝から晩までつけっぱなしにしている家庭さえあります。テレビがどれほど深く私たちの日常生活に入り込み、影響を与え続けているか注意する必要があります。

 テレビ番組はいつでもスイッチひとつで簡単に観ることができます。テレビ局は多くの人が番組を観るよう望みますが、その番組をどこの誰が観ているかということまでは気にしません。番組の内容についても、事実の捏造報道などよほどのことがない限り責任をとることはありません。電波は常に流しっぱなしです。どこの子どもがどの番組を観ようと、いつまで観ようと気にはしません。決してその子どもに小言を言うこともありません。子ども番組の場合、たまに「真似をしないでね」と出演者が言ったり、同趣旨のテロップが流れたりすることはあります。しかし、それが番組を観ている子どもたちに有効かどうかは誰も知りません。恐らく検証もなければ気にもかけないことでしょう。

○社会性が育たない

 体外妊娠期間とも呼ばれる生後十ヵ月はヒトの子どもが社会性を身につける大変重要な時期です。母親の胎内にいては知ることのできない親族との関係を築き、他の人々との関係や言葉を身につけるために聴く力の育成に努める期間です。この時期が親の無償の愛で満たされ、スキンシップや優しい言葉にあふれたコミュニケーションで包まれることこそヒトの子どもの出発点に相応しい育児法です。進化の歴史はそう教えています。

 ところがテレビには、人間同士がつきあうための社会性を育てる力がありません。幼いときから独りでテレビの視聴を続けると、社会性を全く持ち合わせない子どもに育ってしまいます。つまらないと思ったらチャンネルを変えればよいし、スイッチを切ることも自由です。自分ひとりの判断で好き勝手にできます。何をしても、テレビが文句を言うことはありません。その代わり、生身の人間と向かい合うときのような貴重な経験もできません。相手の息づかいを感じたり、聞き返したり、返事をしたり、相手のことを思いやったり、時には喧嘩もするといった時間は持ち得ません。社会性とはあくまでも人間同士が触れ合ったり揉み合ったりする中で身につくものです。画面を見てリモコンを操作しても育つことはありません。

○聴く力が育たない

 乳幼児のときからテレビを観る習慣がつくと聴く力も育ちません。聴く力とは全身を耳にする力です。相手の言葉を漏らさず聴き取る、言葉だけでなく相手の表情や仕草も見逃さない、その場の空気も感じ取る、など幼いうちから生身の人間と向かい合い、繰り返し話を聴いたり、対話を重ねるなかで知らず知らずのうちに身についてゆく力です。

 幼い子どもは好奇心のかたまりです。H・A・レイの絵本「おさるのジョージ」のように何でも知りたがり、熱心に観察し、真似をしながら成長してゆきます。テレビの前の幼児も真剣さでは負けません。食い入るように画面を見つめています。おそらく全身を耳にして観ていることでしょう。しかしいくら熱心に耳を傾けても、テレビの画面は放送局が人為的につくりあげた音声と映像を一方的に流すのみです。動作を真似たり、台詞や歌詞や声色を真似することは上手になっても、豊かな想像力が育つわけではありません。

 映像は強い刺激となって子どもの脳に焼き付き、賑やかな音声が子どもの耳を占領するだけです。しかもテレビの音量は自在に調節ができます。音が小さい・聴き取りにくいと感じたら、リモコンを操作して大きくするだけです。耳をそばだてる努力は必要ないのです。人間の成長に必要な聴くための努力が、テレビの前ではリモコンの操作に代わっているのです。

 また人間同士の会話なら、そのとき話している相手に顔を向けるのが普通です。相手が遠くで話せば、届く声も遠くなります。ところがテレビでは、いちいち顔を向ける必要がありません。相手は常に画面に登場します。遠くにいてもテレビカメラの力で引き寄せてくれます。画面はテレビカメラそのものです。観る人は常にレンズを通して見物し、マイクを使ってその声を盗み聞きしているのです。こんな不自然な経験を幼いときから子どもにさせる必要があるでしょうか。

○心の成長が妨げられる

 テレビは人工的な映像と音声を駆使し、しかもそれらを一方的に送りつけるメディアです。この時期にテレビに触れさせることは動物として受け継がれてきたヒトの感性を大きく歪め、いびつなものにする可能性が高いと考えなければなりません。身体が成長しても、五感を働かせることによって育つはずの心の発達が損なわれてしまいます。心身の成長のバランスを崩すことが、その後の人生にどのような悪影響をもたらすかは昨今の子どもをめぐる多くの暗い話題の中に垣間見ることができます。聴く力を持たない大人が増えていることも気掛かりです。テレビの中の仮想の世界と現実世界との区別が曖昧になっていると感じざるを得ません。そうした現象や事件が増えています。一人にひとつのはずの尊い生命が、あたかもテレビドラマの悪役の生命のように粗末に扱われています。

 心が未発達の乳幼児期に消費社会の申し子とも言うべきテレビを近づけることは何としても避けなければなりません。テレビに子守りをさせるなど論外です。子育てを手間と感じる発想には一歩間違えば幼児虐待にも通底する空恐ろしいものが含まれています。高じれば善意の誤解と単に笑うだけでは済まされなくなります。。

 一度でも番組を視聴した子どもは、たちまちテレビの虜となります。その味を忘れられなくなります。テレビに接する時期が早ければ早いほどその影響を受けやすく、またより強く受けると考えられます。番組を大人だけに届ける方法がない以上、大人の目だけに見える画面を開発できない以上、社会もテレビ局も乳幼児に及ぼすテレビの影響をもっと深刻に受け止め、対策を練る必要があります。

 親が幼い我が子をテレビの影響から保護する方法はごく単純なものです。電波を止めることはできませんが、テレビを持たないことなら誰にでもできます。それが嫌なら、押入に仕舞い込んで観ないようにすることです。子どもが成長し一定の判断力がつくまでは見せないようにします。そして、ひとつでも多く子どもにテレビに負けないだけの楽しみや遊びを積極的に与えるのです。その努力なくして、現代の子どもにただテレビだけを制限するのはバランスを欠く行為です。保育所や幼稚園に通い始めた子どもには大勢の友だちができます。友だちの多くはテレビを観ています。テレビの話題が出たり、ごっこ遊びが始まります。我が子は周りの子どもたちについてゆけないでしょう。仲間外れになるかも知れません。その覚悟と対策も必要です。

 問題の解決には個々の家庭による強い自覚と努力が欠かせません。夫婦でよく話し合い、幼稚園や保育所の影響はもちろん先々の家族計画まで含めて、家族としての方針・計画をしっかり立てる必要があります。二世帯同居の場合は他の親族の協力も欠かせません。丁寧に説明し、その意味を理解してもらいましょう。と同時に、子どもの日常と密接に関わる幼稚園や保育所の協力も得なければ真の解決は期待できません。こうした認識が一日も早く広まり、国民的な運動にまで高められることが理想です。

 

3 テレビは家族の会話も妨げる  ⇒目 次

○いつもテレビ番組を優先

 テレビの影響は精神的な発達を終えたはずの大人にとっても無縁ではありません。とりわけ顕著なのが夫婦の会話を減らす方向に作用することです。会話が減れば夫婦関係はどうしても、ぎくしゃくしてきます。その結果は当然、子どもにも及びます。家族がテレビとどう向き合うかは幼い子どものいる家庭だけでなく、小学生や中学生のいる家庭にとっても大きな問題のはずです。子どもがある程度の年齢に達していれば、家族みんなで一緒に話し合ってみるとよいでしょう。

 年齢を問わず、お父さんにはスポーツファンが大勢います。そのお父さんがサッカーや野球の結果を早く知りたい、贔屓の選手の活躍をいくつものチャンネルで繰返し観て楽しむという話しもよく耳にします。録画という便利な方法もありますが、ファン心理としてはその日のうちに何度も勝利の感激・ファインプレーを味わいたいのが普通です。

 夫婦揃って同じ趣味であれば問題は小さくて済みます。贔屓のチームが異なっていてもそう大きな問題にはなりません。しかしサッカーにも野球にも興味のないお母さんもまた大勢います。こうした家庭では夫の帰宅を待って大事な相談をしようと思っても、妻はいつも各局のスポーツニュースが終了するまで待たされることになります。これでは待たされる側はストレスが溜まるばかりです。

 逆のケースもあります。仕事で悩む夫が悩んだ末に今日こそ妻に相談しよう、打ち明けようと意を決して帰宅したとき、テレビドラマ大好きの妻が例えば韓国ドラマに夢中だったらどうなるでしょう。待たされた方はイライラします。こんなことが重なると切り出すのを止めたり、相談するのを諦めることにもなりかねません。

 テレビは多くの番組が三十分あるいは一時間という単位でつくられています。また時間帯だけでなく、曜日ごとに決まった番組や連続ドラマなどを放送しています。そのため一度テレビが生活に入り込むと、生活のサイクルもリズムも全て観たい番組に合わせて組み立てられることになります。知らず知らずのうちに毎日の生活がテレビの放送時間の枠にはめ込まれてしまいます。

○会話よりテレビの画面

 テレビは多くの家庭で夫婦や家族の会話の機会を奪っています。テレビの前に座ると、目は画面に釘付けとなり、耳は常にテレビの音声だけを追いかけようとします。テレビ以外の音は、たとえそれが親の声であれ、夫の声であれ、妻の声であれ、すべて雑音扱いとなります。かろうじて雑音から拾い出しても、返事が遅れるため相手を不快にさせたり、小言の原因となります。

 またテレビが家庭の中心に座ると、たいてい「ながら家族」化して食事の風景が一変します。大人・子どもを問わず目と耳はテレビ専用に、手と口は食事専用となって、家族が一緒に食事をしているにも関わらず互いの顔を確かめたり家族同士で言葉を交わすことが急激に減ってしまいます。特に食堂近くにテレビが置かれた場合は、日常的にもテレビを観ながらの食事が当たり前となるようです。

 テレビをつけたまま、その前で行なう会話にも問題があります。テレビを熱心に観ている人にとって、横から話しかけられることは運転中に携帯電話に出るようなものです。電話の声に注意を向けると運転が疎かになります。注意力が散漫になり、事故の起きやすい状況が生まれます。こんなときは「いま運転中です」と断るのが普通です。そう言われて怒る人はまずいません。しかし夫婦二人だけの場合は、もめ事の原因となります。「いまは駄目」と言ったら喧嘩になるか、嫌な顔をされるか、嫌みを言われるかでしょう。つい空返事をすることも多くなります。

○家族関係の悪化

 テレビを熱心に観ている人は番組の進行が気になるため、画面から目を離すことができません。たまに相手の顔を見ることがあっても心は間違いなく画面に向けられています。耳はしっかりとテレビの音声に向けられ、何を言われても上の空です。そんなとき大事な話があっても身を入れて聴いてはくれません。何を言われたのかさえ思い出せないくらいでしょう。返事がなかったり空返事が増えて、会話になりません。話しかけた側には大きな不満が残ります。

 テレビは家族の会話を減らすだけでなく、家族一人ひとりのイライラを募らせる困ったメディアでもあります。誰かがテレビを観ているとき、他の家族は話しかけることが難しくなります。そして腹を立てたり、喧嘩の原因となります。会話は家族の原点であり、夫婦関係の基本となるものです。

 夫婦の関係は親子の関係と異なって絶対的なものではありません。元々他人同士であった男女が縁あって結ばれ、互いの合意の上に築かれる現在進行中の関係です。関係の維持には常に努力が必要です。努力とは相手を理解することであり、思いやることです。理解するためにも思いやるためにも常に会話が欠かせません。言葉はそのために生まれたと言ってもよいでしょう。生身の人間同士であってみれば、揉め事の一つや二つは無い方が不思議です。問題なのは揉め事の有無や大きさではありません。それらを解消し関係を維持してゆくための会話が日々消えつつあることこそ大きな危機なのです。

 夫婦水入らずの貴重な時間に、どちらか一方だけが関心をもつ番組を視聴することは控えるべきです。必要なら録画して後で観るのが安全です。どうしてもその日に観なければならないときは早めに伝えて事前に了解を得る必要があります。それでも度重なると相手を不快にさせ問題を引き起こします。関心のない側への気遣い・心配りは、共同生活者としての最低限のマナーと知るべきです。

 

4 テレビは観る人を支配する  ⇒目 次

○テレビの特性

 テレビは画像に音声も加えた大変便利なメディアです。しかし不便なこともあります。それは画面から目が離せないことです。ラジオならスピーカーから流れる音を聴きながら農作業もできるし、料理も模型づくりもできます。手仕事の邪魔にはなりません。文字校正やプログラミングのような高度に精神を集中させる作業を除けば、障りになることは希です。カーラジオをつけっぱなしにしてクルマを運転している人も大勢います。運転の場合は農作業や料理とは異なり、他のクルマや歩行者の動きなどに十分注意しなければなりませんが、それでもラジオの音に気を取られて事故を起こしたというような話はまず聞きません。

 テレビの場合は音声だけ聴いてもたいていは面白味に欠けます。第一さっぱり判らないのが普通です。番組が映像の提供を主体に組み立てられるため、音声には映像を補う役目しか与えられません。それでも台詞やナレーションが聴き取れないと困ることがあります。番組の内容にもよりますが、テレビを観るときは常に画面を見つめ、耳もテレビに集中させるのが普通です。画面から目を離したりぼんやりしていると、大事な場面を見落としてしまいます。前後のつながりが判らなくなると視聴を続けても興味が失せてしまいます。

 原因は番組の進行速度にあります。画像も音声もテレビ局側の決めた速度を忠実に守って、一方的に流され続けます。テレビを観る人には年齢も体調も気分も一切関係なく、ひたすらこの速度に従うことが要求されます。速度に付いてゆけない視聴者は観ることを諦めるか、不十分な理解のまま視聴を続けるしか選択肢がありません。

○考えさせない

 テレビは、テレビの前で考えることをさせないメディアです。ラジオのように音声だけのメディアであれば、聴く人は音声からその意味するものを引き出し、自分でイメージをつくりあげなければ理解ができません。しかしテレビの場合は音を聴く前に、あるいは同時進行で目の前に映像が映し出されます。いちいち自分でイメージをつくったり、それを膨らませたりする必要がありません。そんなことをしていたら、たちまち画面に置いてきぼりを食わされます。

 画面は視聴者を待っていてくれません。見始めたら自分の頭で考えるのは止め、目にはひたすら画面の動きを追うよう命じ、耳には他の雑音は受入れるなと指示するだけです。そうしないと次々に変わる画面に付いてゆけなくなります。視聴者は必死で画面と音声を追いかけるしかありません。幼いときからテレビを観続けていると、自分の頭で考えるよりもテレビで見たものをそのまま信じ込む傾向が強くなります。考えることは面倒でも、受入れるだけならテレビのスイッチを押せばよいからです。テレビの方からイメージも音も届けてくれます。当然、物事の受け止め方も感じ方も受け身の傾向が強まってゆきます。

○想像させない

 テレビの番組は、視聴者が想像力を働かせたり、あれこれ考えなくても、とにかく画面さえ見ていれば気軽に楽しめるよう作られています。一つひとつの番組で考えれば退屈してスイッチを切られたり、他の局にチャンネルを替えられまいとする番組制作者の努力もあるでしょうが、他のメディアとの比較でいうなら、この問題はテレビがもつ本質的な機能や情報伝達の方法と深く関係しています。

 テレビは常に、伝えたいことを映像と音声の両方を使って流します。その際、大きな役割を果すのは映像です。場面の全体を映し出すかと思えば、時には一部分だけクローズアップして大きく見せたりします。いずれも脚本家や演出家の解釈どおり、指示どおりに進められます。ドラマの場合は仮に原作があっても、放送されたものは全て脚本家や演出家が解釈した内容となります。文字を読むときのような、読者が行間を埋める作業は不要です。それらは全て脚本家や演出家の仕事であって、視聴者にまで持ち越されることは通常あり得ません。基本的に想像したり解釈する余地の無いのがテレビということになります。

 テレビの視聴者も劇場における観客と同様、観るときは定まった位置に座っています。視聴者も観客も、テレビ画面や舞台の動きに合わせて席を移動することはありません。ところがテレビの場合は観劇とは大きく異なる点があります。そのひとつが、視聴者の位置があたかもカメラマンになったかのように頻繁に移動していることです。今では余りに当然すぎて気付かない人も多いでしょうが、実は演出家の指示によって移動を繰り返しているのです。時に近づき、時に遠ざかり、あるいは右に行ったり左に行ったり、上に行くかと思えば下に行くこともあります。視聴者は自分の目で観ているのではなく、脚本家と演出家の目で観させられているのです。野球中継の画面を思い起こせば、この指摘がよく理解できるでしょう。

 つまりテレビは視聴者による再解釈の余地がほとんどないメディアということができます。たまに「あっ」と思うことがあっても画面はすぐに切り替わってしまいます。目を逸らしたいと思っても、画面はもっとよく観なさいとばかりに大写しに替わります。そこには観ている人の意思は働きません。できるのはテレビを消す、チャンネルを替える、音の大きさを変える、のいずれかです。迷っていても迷わなくても、観ている人の気持に関係なく画面は展開し、時間がくれば終了します。それがテレビというものの本質です。

○気づかせない

 テレビを観る人の多くは、自分がテレビに支配されていることに気づきません。それぞれの家庭や個室にいて、しかも観たいと思うチャンネルや番組を好きなように選んでいるので、まさかそんなことになろうとは夢にも思わないのでしょう。しかしテレビを観ている目こそ自分のものですが、視点や視野は完全にテレビ局のものです。テレビを観る人全員が、同じ視野・視点をもたされます。自分の頭で考えながら眺めたり観察するのではなく、テレビ局側が用意した視野や視点に基づいてひたすら鑑賞させられているのです。まずこの点を明確に自覚する必要があります。

 しかもテレビの画面は有限です。大画面といってもその大きさは知れています。画面の周りにはカメラのレンズがとらえきれなかった多くの風景が残されています。その場にいれば当然目に入るはずの景色や光景も、画面に映らなければ視聴者には判りません。テレビは見せたいところだけを映し出し、見せたくないところは決して映さないメディアです。いつもいつも番組制作者の目を借りて、ニュースもドラマもコマーシャルも見ているのです。

 こういうことを生まれたときから続けていると、テレビに映るものだけが現実の世界であるかのように考える傾向が強くなります。仮想世界との区別ができなくなり、番組用に造られた特別なセットであろうと、撮影用の衣装であろうと、宣伝用の化粧であろうと、シナリオの世界であろうと、お構いなしに勝手な憧れを抱くようになります。それはテレビに映るものには格別な興味を抱いても、それ以外の世界には無関心であることを意味しています。判断の基準に常にテレビが登場し、映ることに過大な意義や価値を見出だし、期待を寄せるようになります。

 生まれたときからテレビを観ていて、テレビ以外のメディアに接する機会をもたないと、放送されたことをそのまま信じるようになります。幼い子どもがテレビの真似が上手になるのと同じです。いつの間にかテレビに強い興味をもつ大人に育ってしまいます。こうした大人は知らず知らずのうちにスポンサーと同じ価値観を抱くようになり、番組制作者の世界観を自分の中にも取り込んでしまいます。比較はいつもテレビの中で行い、画面の外に出ることはありません。しょっちゅうテレビを観ることで消費に精を出すようになったり、じゃじゃ馬的な覗き趣味を身につけてしまいます。

 批判精神の不毛や歪みが身に付くと、生き方から暮らしぶりまで生活の全てをテレビに頼るようになり、何事もテレビの論調や思潮や様式に沿って行なうようになります。当人がこうした事実に気づくことも、それを疑うこともありません。たまに他の人との違いが目に止まっても、拠るべき大樹の存在を信じているので動ずることはありません。むしろ他の人を哀れにさえ思うことでしょう。


(c)2009 Adzki, Inc  このページのコピー、印刷、送信、転載など著作権に触れるおそれのある行為を禁じます。リンクをはる場合は事前にメールで許諾を得てください。  2010年03月29日更新