4 テレビは観る人を支配する ⇒目 次
○テレビの特性
テレビは画像に音声も加えた大変便利なメディアです。しかし不便なこともあります。それは画面から目が離せないことです。ラジオならスピーカーから流れる音を聴きながら農作業もできるし、料理も模型づくりもできます。手仕事の邪魔にはなりません。文字校正やプログラミングのような高度に精神を集中させる作業を除けば、障りになることは希です。カーラジオをつけっぱなしにしてクルマを運転している人も大勢います。運転の場合は農作業や料理とは異なり、他のクルマや歩行者の動きなどに十分注意しなければなりませんが、それでもラジオの音に気を取られて事故を起こしたというような話はまず聞きません。
テレビの場合は音声だけ聴いてもたいていは面白味に欠けます。第一さっぱり判らないのが普通です。番組が映像の提供を主体に組み立てられるため、音声には映像を補う役目しか与えられません。それでも台詞やナレーションが聴き取れないと困ることがあります。番組の内容にもよりますが、テレビを観るときは常に画面を見つめ、耳もテレビに集中させるのが普通です。画面から目を離したりぼんやりしていると、大事な場面を見落としてしまいます。前後のつながりが判らなくなると視聴を続けても興味が失せてしまいます。
原因は番組の進行速度にあります。画像も音声もテレビ局側の決めた速度を忠実に守って、一方的に流され続けます。テレビを観る人には年齢も体調も気分も一切関係なく、ひたすらこの速度に従うことが要求されます。速度に付いてゆけない視聴者は観ることを諦めるか、不十分な理解のまま視聴を続けるしか選択肢がありません。
○考えさせない
テレビは、テレビの前で考えることをさせないメディアです。ラジオのように音声だけのメディアであれば、聴く人は音声からその意味するものを引き出し、自分でイメージをつくりあげなければ理解ができません。しかしテレビの場合は音を聴く前に、あるいは同時進行で目の前に映像が映し出されます。いちいち自分でイメージをつくったり、それを膨らませたりする必要がありません。そんなことをしていたら、たちまち画面に置いてきぼりを食わされます。
画面は視聴者を待っていてくれません。見始めたら自分の頭で考えるのは止め、目にはひたすら画面の動きを追うよう命じ、耳には他の雑音は受入れるなと指示するだけです。そうしないと次々に変わる画面に付いてゆけなくなります。視聴者は必死で画面と音声を追いかけるしかありません。幼いときからテレビを観続けていると、自分の頭で考えるよりもテレビで見たものをそのまま信じ込む傾向が強くなります。考えることは面倒でも、受入れるだけならテレビのスイッチを押せばよいからです。テレビの方からイメージも音も届けてくれます。当然、物事の受け止め方も感じ方も受け身の傾向が強まってゆきます。
○想像させない
テレビの番組は、視聴者が想像力を働かせたり、あれこれ考えなくても、とにかく画面さえ見ていれば気軽に楽しめるよう作られています。一つひとつの番組で考えれば退屈してスイッチを切られたり、他の局にチャンネルを替えられまいとする番組制作者の努力もあるでしょうが、他のメディアとの比較でいうなら、この問題はテレビがもつ本質的な機能や情報伝達の方法と深く関係しています。
テレビは常に、伝えたいことを映像と音声の両方を使って流します。その際、大きな役割を果すのは映像です。場面の全体を映し出すかと思えば、時には一部分だけクローズアップして大きく見せたりします。いずれも脚本家や演出家の解釈どおり、指示どおりに進められます。ドラマの場合は仮に原作があっても、放送されたものは全て脚本家や演出家が解釈した内容となります。文字を読むときのような、読者が行間を埋める作業は不要です。それらは全て脚本家や演出家の仕事であって、視聴者にまで持ち越されることは通常あり得ません。基本的に想像したり解釈する余地の無いのがテレビということになります。
テレビの視聴者も劇場における観客と同様、観るときは定まった位置に座っています。視聴者も観客も、テレビ画面や舞台の動きに合わせて席を移動することはありません。ところがテレビの場合は観劇とは大きく異なる点があります。そのひとつが、視聴者の位置があたかもカメラマンになったかのように頻繁に移動していることです。今では余りに当然すぎて気付かない人も多いでしょうが、実は演出家の指示によって移動を繰り返しているのです。時に近づき、時に遠ざかり、あるいは右に行ったり左に行ったり、上に行くかと思えば下に行くこともあります。視聴者は自分の目で観ているのではなく、脚本家と演出家の目で観させられているのです。野球中継の画面を思い起こせば、この指摘がよく理解できるでしょう。
つまりテレビは視聴者による再解釈の余地がほとんどないメディアということができます。たまに「あっ」と思うことがあっても画面はすぐに切り替わってしまいます。目を逸らしたいと思っても、画面はもっとよく観なさいとばかりに大写しに替わります。そこには観ている人の意思は働きません。できるのはテレビを消す、チャンネルを替える、音の大きさを変える、のいずれかです。迷っていても迷わなくても、観ている人の気持に関係なく画面は展開し、時間がくれば終了します。それがテレビというものの本質です。
○気づかせない
テレビを観る人の多くは、自分がテレビに支配されていることに気づきません。それぞれの家庭や個室にいて、しかも観たいと思うチャンネルや番組を好きなように選んでいるので、まさかそんなことになろうとは夢にも思わないのでしょう。しかしテレビを観ている目こそ自分のものですが、視点や視野は完全にテレビ局のものです。テレビを観る人全員が、同じ視野・視点をもたされます。自分の頭で考えながら眺めたり観察するのではなく、テレビ局側が用意した視野や視点に基づいてひたすら鑑賞させられているのです。まずこの点を明確に自覚する必要があります。
しかもテレビの画面は有限です。大画面といってもその大きさは知れています。画面の周りにはカメラのレンズがとらえきれなかった多くの風景が残されています。その場にいれば当然目に入るはずの景色や光景も、画面に映らなければ視聴者には判りません。テレビは見せたいところだけを映し出し、見せたくないところは決して映さないメディアです。いつもいつも番組制作者の目を借りて、ニュースもドラマもコマーシャルも見ているのです。
こういうことを生まれたときから続けていると、テレビに映るものだけが現実の世界であるかのように考える傾向が強くなります。仮想世界との区別ができなくなり、番組用に造られた特別なセットであろうと、撮影用の衣装であろうと、宣伝用の化粧であろうと、シナリオの世界であろうと、お構いなしに勝手な憧れを抱くようになります。それはテレビに映るものには格別な興味を抱いても、それ以外の世界には無関心であることを意味しています。判断の基準に常にテレビが登場し、映ることに過大な意義や価値を見出だし、期待を寄せるようになります。
生まれたときからテレビを観ていて、テレビ以外のメディアに接する機会をもたないと、放送されたことをそのまま信じるようになります。幼い子どもがテレビの真似が上手になるのと同じです。いつの間にかテレビに強い興味をもつ大人に育ってしまいます。こうした大人は知らず知らずのうちにスポンサーと同じ価値観を抱くようになり、番組制作者の世界観を自分の中にも取り込んでしまいます。比較はいつもテレビの中で行い、画面の外に出ることはありません。しょっちゅうテレビを観ることで消費に精を出すようになったり、じゃじゃ馬的な覗き趣味を身につけてしまいます。
批判精神の不毛や歪みが身に付くと、生き方から暮らしぶりまで生活の全てをテレビに頼るようになり、何事もテレビの論調や思潮や様式に沿って行なうようになります。当人がこうした事実に気づくことも、それを疑うこともありません。たまに他の人との違いが目に止まっても、拠るべき大樹の存在を信じているので動ずることはありません。むしろ他の人を哀れにさえ思うことでしょう。
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2010年03月29日更新